2014年 10月 02日
チングーだった
昭和37年ごろ、母に連れられ北朝鮮に帰る家族を最寄りの駅から見送った。「アイゴー、アイゴー」とみんなが別れを泣いていた。その時、別れの紙テープやチマチョゴリの艶やかないでたちを初めて知った。これは後に問題となった在日朝鮮人の帰還事業だった。
小学2年生の時、同じクラスにいた在日の子どもとケンカをした。仲が良かったゆえのケンカだったと思うがこれが校長も含め大ごとになり両親、担任の先生と謝罪に行った。その場所は大韓民国と書かれた自治会館だった。
彼の両親と顔役らしき大人が数人いた。それまで私は彼が朝鮮人の子供だとは知らなかった。喧嘩が偏見からの諍い(いさかい)ではないと理解してもらい、国際問題には発展しなかった。
同じクラスにもう一人在日の子供がいた。仲が良かった彼に誘われ朝鮮の人たちが住む集落へたびたび遊びに行った。彼らは私の事を親や友人に「チングー」と紹介した。その時は言葉の持つ意味をあまり気にも留めなかったが大人になり仕事で韓国に行った際、チングーとは「幼なじみ、仲の良い友達」だと知って、そう思ってくれていた彼らの気持ちが嬉しかった。
当時、祖父と父が勤めていた会社から金属片が出ていたのでそれを在日の人に分けていた。そのお礼においしいキムチを度々いただいた。子供の私が好きだと先様に伝えたところ、さらにたくさん届けてくれた。大きな荷物を運ぶ時などはそこのトラックをたびたび借りていたほど近い付き合いをしていた。
中学2年の時、朝鮮学校の中高校生10人ほどからボコボコにされたことがある。数日後、少年愛護センターの人が来て朝鮮学校で行った旅行の集合写真を見せられ、当事者を特定した。今思うに、一方的に言いがかりをつけられた暴力沙汰であったが私が学校に通報すべきでなかったと後悔している。
告げ口的な通報を男気社会の業界用語では「うたう」と言い、理由のいかんを問わず褒められる行為ではなかった。やられたら日を改めて「必殺真空飛びひざ蹴り」でやり返すべきだったと恥じている。その彼らだが他にも犯歴があり、その後鑑別所に入所したと聞いた。
高校の時、仲の良かった友達から「俺は朝鮮人だけどこれからも友達になってくれるか?」と言われたことがある。私は「以前からそのことを知っていて付き合っていた」と伝えたら嬉しそうだった。彼は日本生まれなので週に2回ほど朝鮮学校で朝鮮語の勉強をしていると明かしてくれた。「タバコをください」を朝鮮語で「タンベ、ジュセヨ」と云う事を彼から習い、隠れてタバコを吸った。
まだまだ想い出は尽きないが本日のところはこのくらいにしておく。ただ当時の世間は在日の人に対して偏見があったことも事実だ。
そんな時代を読んでいただき「カムサハムニダ」ありがとう。
昔はキムチとは言わず「朝鮮漬け」と言っていた マシソヨー おいしい
2014年 09月 27日
走っているより血走っている
我が家から日本平方面に30分も走れば山道になり、栗の木がたくさんある。栗の木のポイントに差し掛かるとマラソン練習中の妻も私もキョロキョロと挙動不審になる。
そしてひとつゲット、またひとつゲット・・と練習を忘れて道路脇に落ちている栗拾いに夢中になる。ポケットいっぱいになることもある。
昨夜は風が強かったので木が揺れて栗が落ちているはずだ・・・と寝起きに妻が言った。6時半に家を出て栗拾いに行ってきた。すでに先客の車が数台あり、先を越されていた。
今朝の成果はほとんどが小さな山栗だった。夕方にもう一度行けば大きな栗が落ちているはずだ・・・と妻は意気込んでいる。マラソン練習で走っているより栗拾いで目が血走っている。
奥の小さいのが山栗
夕方、この大きな栗を拾う・・・と目が血走っている
「栗きんとん」を作りました
老舗の味・・・とらや風?
2014年 09月 26日
母子寮の卓球台
クラブに入っていたわけではないが子供の頃から卓球台が身近にあった。小学の5年生までは学校近くに住んでいたので休日は卓球台を借りて練習ができた。
その後、福井市内へ転校してからは環境も変わり卓球をすることもなかった。そんなある日、友人から自由に使える卓球台があるのでそこへ遊びに行こうと誘われた。そこは初めて知る母子寮だった。
母子が8畳くらいの部屋に3人ほどで暮らしており、5世帯ほどがあった。その寮には顔見知りの同級生が二人いたので卓球台を使う事ができた。彼らと練習をしているうちに私も上手になった。
その母子寮で練習できたおかげでこの歳になっても少し上手いのかもしれない。その跡地は今、小さな公園になっている。帰省してそこを通るとあの場所でみんなと卓球したことを思い出す。
ブログを時々見てくれている福井の H な N くん、母子寮へはたびたび行ったよね。
2014年 09月 23日
曼珠沙華
恥ずかしい話だが「暑さ寒さも彼岸まで」の彼岸とはお盆のことだと30歳くらいまで思っていた。お盆にはお墓参りもするし、盆過ぎには涼しくもなることから勝手にそう思い込んでいた。
秋分の日を機会に調べてみた。春の彼岸(春分の日)は3月21日ごろ。秋の彼岸(秋分の日)は9月23日ごろ。彼岸の中日はその年により変動するらしいがともに国民の祝日だ。
彼岸の日には昼と夜の長さがほぼ同じくなるので春分の日を境に「寒さは和らぎ暖かくなる。」秋分の日も同様に「暑さが和らぎ涼しくなる。」このことから「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるようになったようだ。
それではなぜお彼岸にお墓参りをするのか?と云う素朴な疑問だが太陽が東から昇り西へ沈む事(自然の摂理)と仏教の教えとに関係があるようだ。この話は長くなるのであとは貴御自身で調べていただきたい。ただ墓参りをするのは日本だけの習慣らしく、インドや中国では彼岸に墓参りはしないらしい。
今の時期、マラソンの練習をしていると道端に彼岸花が咲いている。独特な色で夜の街を彷彿するような印象を持つ。別名、曼珠沙華と言われるのも私には妖艶に映る。
国民の祝日になっているということは先祖を大切にしなさいということだろうね。了解シマシタ。
2014年 09月 22日
お疲れさん
天候にも恵まれ秋晴れの中を気持ちよく走った・・・と言いたいところだが起伏の多いブドウ畑の中を走るのでとてもタフなコースだった。巨砲マラソンと云うだけあって参加賞には大きな巨砲がふた房付いたのは嬉しい。
久しぶりに妻と一緒に走ったが互いに昨年よりタイムが良くなったと健闘を祝し、自宅でささやかな祝勝会をおこなった。ただし疲れたためか祝勝会の割には飲めなかった。
10月には大井川のフルマラソンにエントリーしている。それなりに練習を積まなければ42.195kmを走りきることはできない。減量に臨み、月に150km以上の走り込みもしたいところだ。
その合間に、マンションの人たちとのお月見会や自治会重鎮との温泉旅行なども入る。さらに練習あとのご苦労さん会などもあるだろうし、ソフトボールの打ち上げなども入るかもしれない。
10月も遊ぶ暇がないほど忙しい・・・の心だ。
巨砲がたわわに実っていた
スタート前にブドウを食べてエネルギーの補給
会場にも巨砲の食べ放題ブースがあった
大会でのスポーツショップは掘り出し物も多い
安田・大サーカスの団長も猫ひろしと同様にマラソン愛好家だ
ネーミングの面白い温泉で疲れを癒した